大阪市内渡船めぐり (7/27 SUN)

大阪市内には、市が運営する8か所の渡船場があり、15隻の船が地域の身近な交通手段として利用されている。

<木津川渡船場>:大正区船町一丁目~住之江区平林北一丁目(岸壁間238m)
建設局が管理する他の7か所と異なり、唯一の港湾局が管理する渡船である。昭和30年には大型トラックまで運搬できるカーフェリーが運航していたが、昭和48年に上流部に千本松大橋ができたため、カーフェリーは廃止された。
大正区側にかつて飛行場があったことは、意外と知られていない。

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古来数多くの川が流れ、水の都と呼ばれた大阪には、人々の往来のための渡船場が各所にあった。当初民間によって営まれていた渡船は、明治24年に大阪府が「渡船営業規則」を定め「監督取締り」を行うようになり、明治40年には安治川、尻無川及び淀川筋の29渡船場については市営事業として市が管理することとなった。

<船町渡船場>:大正区鶴町一丁目~船町一丁目(岸壁間75m)
最も短い渡船である。昭和20年代後半から30年代にかけて、川幅が狭いことを利用して対岸まで船を連ね、その上に板を敷き、人や自転車が通行していた。

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大正9年、旧道路法の施行により渡船は無料となり、昭和7年以降はそれまでの請負制を改め、ほとんどが市の直営方式になった。

<千歳渡船場>:大正区鶴町三丁目~北恩加島二丁目(岸壁間371m)
大阪港復興大正区の内港化工事を行った際、既設の千歳橋が撤去され、その代わりの施設として設けられた。
昭和30年にそれまでの民営から港湾局の所管となり、同39年建設局に移管された。

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昭和10年頃には渡船場31か所、保有船舶数69隻(機械船32隻、手漕ぎ船37隻)、年間利用者は歩行者が約5752万人、自転車等が約1442万台を数えた。

<甚兵衛渡船場>:大正区泉尾七丁目~港区福崎一丁目(岸壁間94m)
昔、尻無川の堤は紅葉の名所であった。「摂津名所図会大成」に『河下に甚兵衛の小屋として茶店あり 年久しき茅屋にして世に名高し』とあり、甚兵衛によって設けられた渡しにある茶店は「蛤小屋」と呼ばれて名物の蜆、蛤を賞味する人が絶えなかったという。

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その後橋梁の架設など道路施設の整備に伴って次第に廃止され、特に昭和20年には戦災によってその多くを失った。

<天保山渡船場>:港区築港三丁目~此花区桜島三丁目(岸壁間400m)
当初は天保山~桜島~築港大桟橋間を三角運航していた。昭和12年、渡船が突風にあおられて転覆し、乗客53人の犠牲者を出す事故があった。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの開業により、外国人従業員の利用も多い。

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昭和23年に15か所で再開されたが、戦災復興とともに道路をはじめとする都市施設が整備され、渡船の利用は次第に減少する。

<落合上渡船場>:大正区千島一丁目~西成区北津守四丁目(岸壁間100m)
上流にある木津川水門(防潮)は毎月1回程度点検のために開閉される。

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<落合下渡船場>:大正区平尾一丁目~西成区津守二丁目(岸壁間138m)
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昭和53年には渡船場12か所、利用者数約250万人になり、平成13年に現在の8か所となった。

<千本松渡船場>:大正区南恩加島一丁目~西成区南津守二丁目(岸壁間230m)
このあたりは木津川の河口に近く、江戸時代には諸国の廻船の出入りが激しかった。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤としても役立つよう、天保3年に大規模な石の堤を築いた。千本松の由来は、この堤防の上に植えられた松並木からきており、「摂津名所図会大成」には『洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼の名に高き天橋立三保の松原なども外ならず覚ゆ』と記されている。

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梅雨明けの猛暑、川面を渡る風を感じれば少しは涼しくなるだろうと走り出しましたが、大阪独特の暑さは健在でした。
「大阪に長く住んでいるけど渡船は初めて」という方もおられました。遠くへ行かなくても近場をじっくりと探索すると、今まで気づかなかったところに新たな発見があるかも知れません。廃止されて今では見ることもできない渡船場跡に石碑が残っている場所もあります。そんなところを訊ねてポタリングするのも良いものです。
お疲れ様でした。
尚、ブログ作成にあたり、大阪市建設局渡船事務所発行「渡船場マップ」を参考にさせていただきました。(文と写真<す>)
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